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弘法さん

上重原町(本郷) 

(イラスト)弘法さん

弘仁十三年(八二二)の夏の真盛りの日暮れ時のことでした。重原の里を通りかかった一人の旅のお坊さんがありました。お坊さんは、たまたまのどのかわきを覚えたので、ある一軒の農家に立ち寄られ、水を所望されたのです。その家の主人は、心よく承知して、冷たい水を恵んでくれました。でもその水は遠くから運んできたようすです。おかしいと思ったお坊さんが、そのわけをたずねますと、
「はい、はい。この辺りは土地が高いもんで、水が出ませんのじゃ。はい、井戸も相当深く掘らんことには。それに井戸なんてものは、わしら貧乏百姓にはとても、とても。」

これを聞いたお坊さんは、村人が水に苦労しているようすを察して、つと立ち上がると家の前のくぼ地に、持っていた錫杖を立てました。そして何やら唱えると、たちまちそこにこんこんと水がわき出てきたのです。この家の者たちは、みんな大喜びしました。

そうこうしているうちに、重原の里はもう暗くなりはじめていました。そこでお坊さんは一夜の宿をと頼まれました。その家の主人はその頼みに、
「お泊めしてもよろしいが、貧しいくらしなので、何も差し上げるものもありません。」
と断りました。するとお坊さんは、
「わしとて旅の一修行僧にすぎません。縁あって立ち寄ったのですから、雨風さえしのげれば結構です。」
と一夜を、その家の片すみで過ごされたのでした。

さて、あくる朝、この家の主人は、いつもひえのご飯ばかり食べていたのですが、水を出してくれたありがたいお坊さんだからと、病気の時のために大切にしまっておいたお米を一握りひえにまぜてご飯をたきました。すると、炊きあがったご飯は、全部輝くような白いお米のご飯に変わっていました。あまりの不思議さに、それをお坊さんにお話すると、
「そなたの真心が、仏に通じたのでしょう。」
と言われて、そこではじめて、お坊さんは、
「愚僧の名は、空海です。」
と名のられました。このお坊さんこそ、時の名僧といわれた空海上人、後の弘法大師だったのです。

たちまち、このことが近所の村むらに伝わり、「せめて、お徳を」と人びとがつめかけ上人は、この里を離れられなくなり、しばらくこの地にとどまられることになりました。
その間に、上人は里の人たちのために、唐で学んできた新しい生活の知恵を教え、またたくさんの病人の苦しみをお救いになりました。重原の大事な産物の「ほうろく」も、もとは耳が欠けやすくて、たいへん困っていましたが、耳の欠けない丈夫なほうろくの作り方も教えてくださいました。

こうして上人は、村人に慕われていましたが、どうしてもこの地を離れなくてはならなくなりました。「どうぞいつまでもこの地にとどまって」と願う村人に、上人は、たまたまこの地にあった赤目樫の木を切って、自分の座像を三体刻まれて、
「この像を見ること、われを見る如くなせ。わが名を唱うるもの、かならず応護せん。」
といわれて、この地に別れをつげられました。

その三体の像のうち一体は、右を向いて大師と別れを惜しまれたので「見返り弘法」(遍照院)、また一体は、立ち去る大師との別れを惜しんでお見送りされたので「見送り弘法」(西福寺)、そしてもう一体は、お別れに際して涙を流されたので「流涕弘法」(密蔵院)といわれています。
お し ま い

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